01:納屋川岸跡

生(鮮魚)街道で吉高の大桜を見に行く

房総に生街道(なまかいどう)という道があるという。鮮魚街道(せんぎょかいどう)とも言うらしい。2023年の吉高の大桜はこの生街道を走って見に行った(2023/04/01)


撮影ポイント付きルートマップ

2023年の走行ルートは下図のブルーのラインとグリーンのライン。


生(鮮魚)街道とは

生街道あるいは鮮魚街道は、江戸時代に銚子から日本橋の魚河岸まで鮮魚を輸送するための街道のことで、ルートは、利根川の布佐河岸から松戸間の陸路約30km(七里半)。

鮮魚は銚子から布佐河岸までと、江戸川の納屋川岸から日本橋までは水路で運ばれた。

生街道は、鱻(なま)街道などと表記したり、「なまみち」と呼ばれることもある。


生(鮮魚)街道を走る

納屋川岸から走り出す

午前9時、JR金町駅で集合した一行は江戸川の納屋川岸を目指す。

今回の旅は、江戸川から生(鮮魚)街道(以下鮮魚街道と表記)で利根川まで走って吉高の大桜を眺めた後、印旛沼でうなぎを食するというもの。

納屋川岸を目指す一行
納屋川岸を目指す一行

こちらが江戸川の納屋川岸。納屋川岸は、かつて房総半島の銚子から日本橋まで鮮魚を運んだ街道の中継地点となる場所。

夕方に銚子を出発した鮮魚は、利根川水路で運ばれて翌朝には布佐河岸に着き、馬に積み替えられた荷は昼過ぎにはここ納屋川岸に到着したそうだ。30kmもの道のりを重い荷を積んだ馬で。

01:納屋川岸跡

その鮮魚街道を逆側からだが走ってみよう。

まずは納屋川岸跡から南下。街道は常磐線の線路に遮られるので跨線橋で越えると、進路は真東となる。

02:常磐線・上野東京ラインの跨線橋
02:常磐線・上野東京ラインの跨線橋

国道6号線と交差した後、国道464号線に沿って走り「美野里信号」から北東に伸びる道へ進む。

03:鮮魚街道 和名ケ谷付近
03:鮮魚街道 和名ケ谷付近

途中で県道281号線に合流してしばらくすると、今度は新京成線に遮られるので踏切を渡って北東方面に進む。

04:新京成線みのり台駅付近
04:新京成線みのり台駅付近

新京成線の八柱駅付近で、再度、新京成線と武蔵野線の線路に進路を遮られる。

踏切を渡ると、景色が少しのんびりした感じになる。

05:鮮魚街道 常盤平柳町付近
05:鮮魚街道 常盤平柳町付近

子和清水

先ほどの新京成線と武蔵野線の線路を渡ると、程なくして子和清水という場所に着く。

ここには湧水があり、鮮魚街道で運ぶ魚に水をかけたり、馬に給水させていた場所。

06:子和清水
06:子和清水

また、養老伝説として次のようなことも伝わっている。

昔酒好きな老人が住んでいて貧しい暮らしなのに外から帰るときは酒に酔っている。息子がいぶかってあとをつけてみるとこんこんと湧き出る泉を手で掬って「ああうまい酒だ」と言って飲んでいた。父が帰った後息子が飲んでみるとただの清水だった。この話を聞いた人々が「親はうま酒、子は清水」と言うようになった。 

06:子和清水
06:子和清水
06:子和清水
06:子和清水

龍蛇神を祀る高靇(たかお)神社

再び子和清水を出発して鮮魚街道を走る。

07:高靇神社
07:高靇神社

新京成線の五香駅を跨いでしばらく走ると、神社が現れたので停車して参拝。

鮮魚街道に面した場所にある神社なので、何か水に関係しているのではないかと思い、備え付けのパンフレットを見るとやはりそうだった。下記はwikipediaより。

髙靇神社(たかおじんじゃ)は、千葉県松戸市にある神社。明治時代、旧小金牧を開墾して成立した五香六実村の鎮守として創建された。最初は雨乞いのため出雲大社の龍蛇神を祀っていたが、その後に高靇命と日本武尊も祀るようになり、1879年(明治12年)に「髙靇神社」として成立した。社名は祭神の高靇命に由来する。

wikipedia

龍蛇神を祀っていた。龍蛇神については出雲大社の公式サイトに次の記述があった。

 「龍蛇神」は海蛇の神様で、水に住む“龍”の信仰からは火難除け、水難除けの守護神と仰がれ、地に住む“蛇”の信仰からは土地の災難除けの守護神と仰がれます。この二つの信仰が融合し、現在では広く家内安全や除災招福などの守護神として崇敬されています。  

出雲大社

参拝を済ませた一行は再び、鮮魚街道の途に就く。

しばらく真東に進むと自衛隊の基地が現れ、進路を遮られた。本来は基地の敷地を横切って東へ向かう鮮魚街道は、ここで迂回をさせられる。

08:鮮魚街道 柏市高柳付近
08:鮮魚街道 柏市高柳付近

自衛隊の基地を右手に見ながら一旦北へ向かう。そして、県道白井流山線に合流して再び東へ向かう。

基地の北東端の外れに、街道の常夜灯が残されていたのだが、うっかり通り過ぎてしまった。

09:鮮魚街道 白井市富塚付近
09:鮮魚街道 白井市富塚付近

不動明王道標

自衛隊基地を通過した後は、白石市と印西市を走る。この区間は街道の遺構が次々と現れる区間でもある。

まずは、鮮魚街道の白井市富塚付近に不動明王の道標があった。「右 成田山道」と案内があった。

10:鮮魚街道 不動明王道標
10:鮮魚街道 不動明王道標

水切り場跡

次に現れたのが、鮮魚街道の水切り場跡。

ここで江戸まで運ぶ鮮魚の鮮度を保つために、竹かごの入れ物に入れた魚をきれいな湧水に浸して冷やしていたようだ。水に浸した籠をあげて水を切る事から「水切り場」となった。

11:鮮魚街道の水切り場跡
11:鮮魚街道の水切り場跡

真新しいお社と案内板は、地元の高齢者クラブが建造したものだそう。

11:鮮魚街道の水切り場跡
11:鮮魚街道の水切り場跡
12:鮮魚街道の並木道
12:鮮魚街道の並木道

白石市の十余一(とよいち)にある並木道を過ぎると、神社が現れたので再び参拝。石尊阿夫利神社は、「石尊」とあるように、石が尊崇の対象になっている神社。

社殿の横にある階段を上がって奥宮を参拝したが、青く光るという伝説の石は社殿に安置されていて拝むことは出来なかった。

石の伝説は、鮮魚街道とは関係がないかもしれない。

13:石尊阿夫利神社
13:石尊阿夫利神社

浦部の百庚申

次は県道市川印西線(木下街道)にある浦部の百庚申。この道は狭い上に大型車の通行も多く、我々が訪れた時もダンプカーが前と後ろを走っていたので、停車せず通過することにした(写真は走行中に撮影)。

刻像塔10基と文字塔90基で合計100基あるので百庚申。

14:鮮魚街道 浦部の百庚申
14:鮮魚街道 浦部の百庚申

庚申信仰は、中国の道経「三尸(サンシ)説」に由来するもので体内に棲む三尸という虫が庚申の夜に人が熟睡している間に抜け出し、天帝にその人がした悪事などを告げて寿命を縮めてしまうので、その夜は眠らずに夜を明かし、人々の無病息災や長寿などを祈願するもの。

百庚申は、より多くの塔を建てることにより、より多くの功徳を得たいという人々の気持ちの表れのようだ。

庚申塔が赤く塗られているのは、印西西部や白井北部に多く見られるようで、病魔や災害を避ける意味があるみたいだ。


大杉神社

大杉神社には、大きな石柱があり道標となっている。「南江戸道」と書かれている。

15:大杉神社そばにある道標
15:大杉神社そばにある道標

しばらく長閑な道を進むと、やがて手賀川に突き当たる。

16:鮮魚街道 印西市発作付近
16:鮮魚街道 印西市発作付近

手賀川を渡って更に進むと利根川布佐河岸に着き、鮮魚街道の旅が終わる。


網代場跡と馬頭観音堂

布佐河岸にある網代場跡は、鮮魚街道の起点で、後に水運の発達と共に船着場も出来て大変栄えた場所だが、今は何も残っていない。

21:網代場跡
21:網代場跡

江戸時代には一日4000籠を130〜150頭の馬で鮮魚を運んでいたという鮮魚街道。馬頭観音堂は唯一当時の繁栄をしのばせる場所となっている。

16:馬頭観音堂
16:馬頭観音堂

印旛沼のうなぎを食す

網代場跡からは利根川の右岸を走って、木下東あたりから利根川水郷ライン(県道356号線)に入る。

17:印西市下井付近
17:印西市下井付近

印西市将監付近で利根川水郷ラインを離れ、印西市下井から鎌ケ谷本埜線へと進路を変える。

そして、印西市松虫で宗吾街道へと乗り換えて、13時30分にい志ばしに到着。

18:い志ばし
18:い志ばし

吉高の大桜

うなぎを食べた後は、宗吾街道を戻って吉高の大桜へ。2023年は、満開を過ぎての観覧となった。満開時と土日が重なるタイミングはなかなか無いものだ。

19:吉高の大桜
19:吉高の大桜

吉高の大桜のそばには、古墳もあった。

20:羽黒古墳群
20:羽黒古墳群

この日は、JR成田駅から輪行して帰京した。


2023年のライドを終えて

「吉高の大桜を見てうなぎを食べるライド」が無事終了した。2023年は、鮮魚街道という新たなルートが開拓できて新鮮な旅となった。今回は、江戸川の納屋川岸から利根川の布佐河岸まで逆走したが、いつか順走もしてみたい。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

アーカイブ

Search

Proudly powered by WordPress