スワイチ!の翌日は下諏訪から松本へ。途中の五千石街道は北アルプスの山々を見ながら走れる爽快ロードだった(2024/4/28)
撮影ポイント付きルートマップ
旧中山道で塩尻へ
午前9時、旧甲州道中と旧中山道の接続地点にある御宿まるやを出発。
旧中山道を伝って塩尻へ向かう。目指すのは五千石街道の始点だ。
下諏訪宿近辺の旧中山道は、クルマの往来が少ない細い道。「右中仙道」と刻まれた石標がある場所はまっすぐに進む。
岡谷市にかつての江戸防衛のために置かれた今井番所跡があった。江戸に持ち込まれる武器や江戸から出ていく女性(大名の妻)、罪人をチェックしていた関所だが、現代の旧中山道にはそのような物騒な物や人は通っておらずひっそりとしている。
旧中山道は長野自動車道の岡谷インターチェンジと交差するが、大きく迂回することなくうまい具合にやり過ごす。
上りも下りも歩いた塩尻峠
インターチェンジを越えると上り坂となり、塩尻峠の大岩から塩尻峠までは激坂区間。道も悪いので押して歩く。
塩尻峠に着くと、松本側から青年二人が自転車で上ってきた。「諏訪方面ですか?」と聞かれたので来た道を教えてあげた。もちろん激坂であることも。
塩尻峠から松本方面への下りも激坂。走って降りるのは怖いから歩く。上りも下りも歩きだ(笑)
東山一里塚のあたりは、景色が開けていて遠くに山並みが見えた。
塩尻市旧塩尻の道路脇には、花が咲き誇っていた。
旧中山道と長野自動車道が交差する場所は、景色が開けていて北アルプスが望めるビューポイントとなっている。
鉄製の構造物が道路を跨いでいた。形は鳥居だが、神社の参道というわけでもなさそうだ。
五千石街道
旧中山道と五千石街道の合流地点に到着。ここで旧中山道とは別れてして、距離13kmの五千石街道を走る。
五千石街道とは
石(こく)は、昔の土地の生産性を表す石高(こくだか)の単位で、五千石とは現在の貨幣価値で1億7千万円ぐらい。五千石街道は、年貢や物資を運ぶために利用されていたようだ。街道の成り立ちはwikipediaに掲載されている。
大坂夏の陣の論功行賞で、松本藩は小笠原秀政・忠脩父子が戦死し、あとを継いだ忠政が松本8万石から播州明石へ移封され、松本へは戸田康長が7万石の領地替で高崎藩から移された。
浮いた1万石は、諏訪と高遠両藩に5千石ずつ分け与えられた。そこで諏訪藩主が東5千石の飛び地の巡見に利用した道が「五千石街道」と呼ばれるようになったともいわれている。
塩尻市
五千石街道は、クルマがあまり通らない自転車にとっては走りやすい道。
また、鉄製構造物が道路を跨いでた。今度は鳥居の形ではないが何かを掲示できるように構造になっている。検索してみたら提灯を吊るす画像が出てきたので、祭りに使用するのかもしれない。
北アルプスの山々を見ながら
塩尻市片丘のあたりまでやってくると、再び遠方に北アルプスが見えた。ここに住んでいる人には見飽きた景色だろうが、旅人はつい写真を撮ってしまう。
君石
塩尻市と松本市の境にある松本市寿小赤までやって来た。交差点付近に何かが祀ってあるので停車して見てみる。立て看板には下記の記載があった。
鎌倉幕府の五代執権北条時頼が、直領地良田郷の支配に派遣した六男相模六郎が、この知で死去し弘長寺が建てられた。後に火災に遭い移ったので後に石碑を建て君石といっている。
松本市道4017号線を北上していると、五千石街道は一旦、県道287号 町村白川村井停車場線になった。
県道287号線を170mぐらい進むと、今度は松本私道4051号線になった。
長閑な道を進みながら、田川に沿って更に北上を続けると、五千石街道は県道288号 新茶屋塩尻線になった。
そして、松本市寿北のあたりの平田橋で田川を越すと五千石街道の終点に着いた。終点には碑があるだけで街道の名残はなかった。
宿泊先の松本駅周辺まで走る区間では、パン屋で休憩を兼ねて補給。
松本駅に着いたらまっさきに三代澤酒店へ出向いた。松本や諏訪の酒を買って東京へ送るためだ。
走リ終えて
今回は下諏訪から塩尻まで旧中山道を、塩尻から松本まで五千石街道を走ってみた。五千石街道は長閑な道が多く、道の左右には民家や畑があり、遠くには山並みが見える。日本の原風景を見ているような、そんなことを感じながらサイクリングできる貴重な道だと思う。
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