久しぶりに日本橋から伊勢神宮まで走ってみた。静岡県の白須賀宿までは旧東海道で、その後は渥美半島を走って伊良湖岬からフェリーで鳥羽へ。総距離380kmを4回に分けて刻んだ。本記事(3)は富士市〜浜松区間(2019/09/27)
目次
旅の計画
今回の旅は、東京・日本橋から白須賀宿(静岡県湖西市)までの旧東海道パートと、白須賀宿から伊良湖岬までの渥美半島パート、鳥羽港から伊勢までの伊勢パートを自転車で走る計画。全長約390kmの陸路を延べ4日に分けて走行しました。
旧東海道パート(日本橋〜白須賀)
渥美半島パート(白須賀〜伊良湖岬)
伊勢パート(鳥羽港〜伊勢内宮)
3日目のアクティビティ
3日目の行程は富士市から浜松まで。富士駅出発〜富士川〜蒲原宿〜由比宿〜さった峠〜興津宿〜江尻宿〜府中宿〜安倍川〜丸子宿〜宇津ノ谷峠〜岡部宿〜藤枝宿〜島田宿〜大井川〜金谷宿〜小夜の中山〜日坂宿〜掛川宿〜袋井宿〜見附宿〜天竜川〜浜松宿の130kmとなる。下図は実際のアクティビティ。
富士川
午前7時47分、新富士駅から出発。まずは前回離脱した旧東海道のポイントに向かうため北上。富士本町で旧東海道に復帰し西へ向かう。
岩渕地区
富士川を渡り岩渕地区へ。
岩渕地区には、かつて渡し場があったところで間の宿として栄えたそうだ。
現在ものその名残が残っていて江戸時代の風情がある。大きな門構えのあるお宅があったので自転車を停めて撮影させてもらった。後で調べてわかったことだが、このお宅は女優常盤貴子さんのお父さんのご実家なのだとか(ご立派!)。
道が90度にクランクする場所に大きな木があった。岩渕の一里塚だ。
一里塚は、旅行者の目印として大きな街道の側に1里(約4km)毎に設置した塚。榎などの木を植えたり標識を立てたりしていた。ここにも道の左右に榎が植えてあり、下図の大きい榎は2代目で、反対側の小さな榎が江戸時代のものだそう。
東海道を示すプリントがアスファルト上にあり道に迷うことはない。
蒲原宿
午前8時30分ごろに、東海道五十三次の15番目の宿場である蒲原宿を通過。
蒲原宿は旧東海道の面影が残るレトロな街並み。ゆっくりと走ってタイムスリップしたような感覚を楽しむ。
由比宿・さった峠
9時15分頃に由比宿を通過。
さった峠へ上がっていく。
さった峠からの富士山は、山頂がちらっと見えた程度。よく晴れた空だったが、雲に隠れてしまった。
安倍川で小休止
午前11時すぎに安倍川に到着。川の手前にある茶屋で小休止した。
安倍川もちは、(本来は)つき立ての餅にきな粉をまぶし、その上から白砂糖をかけたもの。江戸時代の日本では大変貴重で珍しかった白砂糖がたっぷり乗った和菓子は、現代においてはサイクリストの良き補給食だ。
江戸時代の安倍川には、現代のように橋がかかっていなかった。幕府の防衛政策などにより架橋、通船が禁じられていたといわれてる。旅人は、「川越制度」に則って、人足の肩に乗ったり、棒につかまったり、板に乗せられたりして川を渡っていた。川越の料金は水深によって異なっていて48〜94文(1400〜2800円)だったようだ。
丸子宿でとろろ汁
午前11時半ごろに丸子宿を通過。丸子宿は、東海道中でもっとも小さい宿場。
ウィークデイだったこの日、いつも行列ができている丁子屋さんに寄ってみることに。この丁字屋さんは、歌川広重が「東海道五十三次」に描いている。
丸子宿名物のとろろ汁を初めていただいた。お櫃のご飯は一人前だが、私には多かったようで少し残してしまった。
宇津ノ谷峠を越える
12時20分、宇津ノ谷の集落入り口に着く。
宇津ノ谷の集落は、旧東海道の丸子宿と岡部宿の間に位置し、街道を往来する旅人たちが休憩した静かな山あいの集落。
現在でも40戸ほどの家があり、昔の街道の面影を残す懐かしい雰囲気を感じることができる場所だ。
宇津ノ谷には峠があり、峠越えルートとして明治・大正・昭和・平成の各時代のトンネルがある。
徒歩のルートとして、「蔦の細道」というルート(上図右端)もある。こちらは最も古い道で平成時代から使われていたようだ。
岡部宿・藤枝宿・島田宿
12時46分 岡部宿本陣を通過。
岡部宿があった藤枝市岡部町のあたりも昔の雰囲気が残る場所。建物や道路は現代のものだが、なぜか、街道の佇まいがあるのだ。
藤枝市の松並木も旧東海道の面影を感じる。きっと道幅は江戸時代と同じだったのだろう。
島田宿の手前でちょっと寄り道をした。大井川にかかる木造の蓬莱橋の袂でじてんしゃを停め小休止。売店で冷えた静岡茶をいただく。
島田宿を通過したのは、午後2時20分をまわっていた。
金谷宿・大井川・日坂
大井川橋を越えるとまもなく金谷宿。江戸時代、橋が掛かっていなかった江この大井川を渡るのは、さぞや大変だったのだろうと思う。
上図の女性は「川越制度」に則って、板に乗せられて川を渡っている。川越人足の胸まで水深があるので、川札(切符)の値段は2番めに高い「乳通(ちちどおし)」だ。
金谷宿を過ぎると、旧東海道は上り坂になった。
上り坂の途中に、旧東海道の石畳(金谷坂)があったが、今回はスルー。
江戸時代にこの金谷坂は、雨が降るとぬかるんで旅人や馬車を苦労させた。そこで、明治末期に石を敷き詰めて40間(720m)の石畳が造成されたが、近代になって電柱の敷設などによってその面影は失われてしまう。
平成になって町おこしの一環で石畳は復元された。旧東海道の石畳は実際に歩くことができるのだ。
しかし、金属クリートが付いたシューズでは石畳の大きな玉石を傷つけてしまうし、何より自転車を押して歩くのが辛いのでやめました。
15時過ぎに東海道の三大難所といわれる標高252mの峠、小夜の中山に到着。ここを越えると急な下り坂の日坂(にっさか)となる。
日坂の急坂は歌川広重の浮世絵にも描かれている。
坂を下りきると、日坂宿だ。
掛川宿・袋井宿
16時過ぎに掛川宿に入った。
掛川宿には七曲がある。七曲は、容易に敵を進入させないための道路の構造。自転車のスピードも上がりません。
東海道の松並木が残っています。かつて行き交う旅人が木陰で休息をとっていた往時をしのばせてくれる景色です。
16時48分、袋井宿に到着。ここは江戸日本橋と京都三条大橋のどまん中に位置するようです。
18時20分、浜松駅到着。新富士駅を出発して11時間半もかかってしまった。走った距離は約130kmでした。
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