4度目となる自転車で行く伊勢神宮詣で。回数を重ねるごとに、東京から伊勢まで自分の脚で走りきる、というこだわりが減ってきたので(笑)、今回は道中を楽しむ旅にしようと考えた。200年前、東海道中膝栗毛の物語で弥次さん喜多さんが道中を楽しんだように。前編は由比から浜松までの旅路です。
目次
東海道中輪栗毛とは
タイトルの『東海道中輪栗毛』は、1800年初頭に刷られた滑稽本『東海道中膝栗毛』をもじったもの。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬(栗毛色の馬)の代わりに使う徒歩旅行という意味なんですが、膝の部分を自転車の「車輪=輪」に置き換えて自転車旅行としてみた。
膝栗毛の主人公である弥次さんと喜多さんは、厄落としにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都、大坂へとめぐります。道中の2人は、洒落や冗談をかわし合い、いたずらを働き失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こすわけです。この記事は、その膝栗毛のエピソードと私の輪栗毛を混ぜながら、伊勢詣での旅を紹介するものです。
輪行で由比へ。そして薩埵峠越え
早朝、都内からJR東海道線に乗り込み由比まで輪行する。冬の東海道線は寒い。電車なのだからそんなことないだろうと思えるが、東海道線は駅での停車時間が長いので、暖房で暖まった車内の空気が一気に冷えてしまうのだ。ダウンジャケットを持ってこなかったことを後悔しながら、由比まで我慢する。
8時ちょっと過ぎに由比に着いた。電車を降りて駅を出てみると、陽がのぼっていて寒さは少し和らいでいた。
由比は雲ひとつない晴天だった。弥次さん喜多さんが蒲原でひと騒動(天井ぶち抜き事件)を起こし、由比に入った時には、清見ヶ関の絶景が雨にけぶって見えなかったという設定になっているが、私の目の前には絶景が広がっていた。
薩埵峠では、このあたりのミカン農家が無人販売しているぽんかんを食べてみた。ぽんかんの果汁がとても水々しくて、朝から何も口にしていなかった胃を刺激したのか急に腹が減ってきたので、峠を下りたところにあったコンビニに飛び込んだ。
峠を下りるとすぐに興津だ。江戸時代、この由比から興津の間は東海道の中でも景色の良いところとして知られ、とくに清見ヶ関(現在の清見寺)からは絶景が見えたそうだが、今、同じ景色を見ようとすればきっとバイパスが邪魔になるだろう。
興津からは国道1号線を走る。国道1号線は路面が滑らかで走りやすいが、クルマが多いので少々騒がしい。清水までやってきたところで、旧東海道へ入る。清水は東海道53番目の宿、「江尻宿」だ。
旧東海道の地図は、こちらのサイトで詳しく紹介されている。
■GpsCycling.net
東海道五十三次 旧東海道地図
安倍川を渡るまえにちょっと茶屋で休憩
静岡駅の手前から再び国道1号線に出る。静岡駅近くには、「府中宿」があるのだが、下調べが不十分だったため通過してしまう。しかし、安倍川を渡る前に「安倍川餅」は食べた。美味しいものだけは見逃さないのだ(笑
膝栗毛の弥次さんと喜多さんは、この安倍川餅は、お腹が空いていないという理由で食べずに通過した。こんなに美味しいのにもったいないことだ(笑
せきべやで安倍川餅を食べていると、お店のご主人が、どこから来て、この先はどこまで行くかなど話しかけてきた。こちらがひと通り話すとご主人は、「宇津ノ谷峠は大した峠じゃないから楽だよ」とか「クルマが多いが道幅が広いので安心していい」と旅の安全を気づかってくれた。先代のご主人も、江戸時代の旅人にきっと同じような話をしていたに違いない。
丸子宿から宇津ノ谷峠へ。
安倍川を渡るとすぐに丸子宿だ。ここも昔の街並みを残した風情があるところだ。道路も空いているのでゆっくり走りながら見物できる。雰囲気のいい建物があったので写真を撮っていると、隣の家の人が話しかけてきた。ロードバイクに興味があるようで、僕の自転車を見てIndependent Fabricationの名前を知っているのには驚いた。そして、もっと驚いたのは、ここは「まるこやど」ではなくて、「まりこやど」だ、ということだった。
丸子宿を抜けると川に出る。川に面して茅葺き屋根の茶屋がある。「東海道中膝栗毛」にも、登場し弥次さん喜多さんがとろろ汁を食べに立ち寄る丁子屋だ。二人は茶屋の主人である夫婦の喧嘩に巻き込まれてとろろ汁を食べずに店を後にするのだが、私も腹が減ってなかったので先を急ぐことにした。
丁子屋の前の丸子川には、サイクリングロードがある。しばらくこれに乗っていると再び国道1号に出て、やがて宇津ノ谷峠の入り口にある道の駅に着く。国道1号はせきべやのご主人が言っていたように走りやすそうだったが、若干上り道でもあったので歩道を行くことにした。歩道は広く、歩行者もいなかったが注意して走った。
宇津ノ谷峠にも宿場がある。街並みも当時の面影を残した風情のある佇まいとなっている。峠道を上りながら宿場街が見渡せるこの景色がたまらない。
宇津ノ谷トンネルには、新しい照明が設置されたようだ。トンネルの壁に照明の明かりが拡散して心地よい明るさだ。今までのようなオドロオドロしさは無くなっている。
瀬戸の染飯
トンネルを抜けると岡部(岡部宿)だ。ここから10kmも離れていない先に藤枝(藤枝宿)がある。藤枝には染飯(そめいい)という旅人が保存食として持ち歩いた食べ物があり、いまでも食べられているという。興味があったので探してみた。
駅前の惣菜屋「喜久屋」に染飯があった。しかし単品は売り切れていて弁当がひとつ残っているだけだった。ちょうど腹が減っていたので、弁当を買って染飯を食べてみる。クチナシの実で山吹色に染められた染飯は、ほんのりと草花の香りがする優しい味だった。クチナシの成分は疲労回復、滋養強壮に効くので旅人にもてはやされたとか。
■喜久屋
静岡県藤枝市駅前 1-6-19
蓬莱橋で大井川を渡る
いよいよ大井川を渡る。いつもは県道381号線にかかっている水色をした「大井川橋」を渡るが、今回は蓬莱橋を渡ってみることにする。
蓬莱橋は全長897mもある世界最長の木造歩道橋。通行は有料になっていて自転車の場合は100円かかる。歩いて渡ってみると意外と長く、橋の上から川をのぞき込むと所々深いところもあり、昔の人はどうやって渡ったのだろうと思う。
あたりまえのことだが、現代は、川に橋がかかっているので簡単に渡ることができる。しかし、弥次さん喜多さんがいた江戸時代は、軍事的な理由で橋をかけていなかったため、旅人は「川ごし人足」に担いでもらい渡っていたようだ。弥次さんは、物語の中で川を渡るために、渡し賃を65文(2,000円)払っているが、少々ボラれたようだ(笑
金谷から小夜の中山へ
大井川を渡ると金谷に着く。ここから先の日坂までは今回楽しみにしていた区間。小夜の中山を通過する。この区間を明るいうちに走りたくてルートを短縮したのだ。
金谷坂の石畳を歩いて上る。大きな石が敷き詰められたこの坂は、とても自転車の乗って上れるような道じゃない。上りきると今度は菊川坂が現れる。こちらも石畳の坂だが、下りなので平行するアスファルト道路を走った。
金谷坂を下り切ると、菊川の里があり、古い街並みを過ぎると再び上り坂が現れる。小夜の中山峠へ向かう箭置(やおき)坂だ。青木坂とも呼ばれるこの坂は、15%を超えるのではないかと思えるほどの激坂だった。ここを上ると小夜の中山峠がある。この峠はかつては箱根峠、鈴鹿峠と並んで東海道3大難所の一つだったそうだ。
小夜の中山峠は結局どこだかわからなかった。ピークらしいところには何も表示がなかった。このピークを過ぎると茶屋がある。時代劇に出てきそうな雰囲気のお店だ。せっかくなので立ち寄る。店先はおみやげのようなものばかりで食べるものは少ない感じだった。物色をしていると、主人であろう、おばさんが水飴を勧めてきたので、ひとつもらった。優しい甘さの水飴だった。
「今日は特に西日が眩しいね。ここから先は真っ直ぐな道で、〇〇〇mいくと急な下りがあるから気をつけて」扇屋のおばさんがそう言った。〇〇〇mのところは具体的な数字だったが忘れてしまった。
西陽に向かってまっすぐ下って行くと、視界に茶畑が広がった。その先には、確かに急な下りが待っていた。本当に急な坂で、前につんのめりそうになる。
ここは、二の曲がりと沓掛(くつかけ)といわれるところ。「沓掛(くつかけ)」の名は、旅人がわらじや馬の沓(くつ)をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するといわれている。アスファルトが敷かれていなかった江戸時代は、雨が降れば滑って歩けなかったに違いない。難所ということだ。
日坂を降りると、県道415号線に出るが交差してそのまま旧東海道に入る。日坂宿だ。ここは江戸時代の宿場町の姿が残っている場所。当時の建物は火災などでほとんど消失したそうだが、残された遺構が保全されていて江戸時代にタイムトリップできる。
川坂屋という旅籠屋があまりにもきれいなので写真を撮っていると、管理人らしき人がちょうど帰るところらしく、色々と話を聞かせてくれた。画像では、戸が閉まっているが日中は開け放たれていて屋内を見ることができるようだ。
掛川から浜松まで輪行
日が暮れかかっていたので、日坂からは県道415号線、国道1号線と走り先を急ぐことにした。ただ、道中あまりにもゆっくりしてしまったせいで、浜松まで40km近くの距離を残してしまっている。気温はぐんぐん下がっていき、走っていると鼻水が止まらない。日が暮れて真っ暗な道を走っても楽しくないな、ということで掛川から東海道線に飛び乗った。