久しぶりに日本橋から伊勢神宮まで走った。4回に分けてその様子を記事にしたのでよろしければお読みください。本記事(1)は日本橋〜小田原までの記録(走行日:2019/09/7)
目次
旅の計画
今回の旅は、東京・日本橋から白須賀宿(静岡県湖西市)までの旧東海道パートと、白須賀宿から伊良湖岬までの渥美半島パート、鳥羽港から伊勢までの伊勢パートを自転車で走る計画。全長約390kmの陸路を延べ4日に分けて走行しました。
旧東海道パート(日本橋〜白須賀)
渥美半島パート(白須賀〜伊良湖岬)
伊勢パート(鳥羽港〜伊勢内宮)
1日目のアクティビティ
1日目の行程は日本橋から小田原まで。日本橋出発〜品川宿〜川崎宿〜神奈川宿〜戸塚宿〜藤沢宿〜平塚宿〜大磯宿〜小田原宿着の86kmとなる。下図は実際のアクティビティ。
日本橋〜品川宿
06:30 日本橋出発
さて、ここからが実際のアクティビティの紹介です。まずは午前6時半に日本橋を出発。中央通り(国道15号線)を走り出す。
日本橋は、江戸時代の陸上幹線道である東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の始点。現在の国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号線の始点でもある。橋の真ん中には「日本国道路元標」が埋め込まれている。
「中央通り」は、銀座・京橋・神田・秋葉原・上野といった商業地・繁華街などを通る都心の道路の通称だが、長年銀座で働いている私にとって「中央通り」や「銀座通り」は、馴染みのある通りの名です。
07:13 品川宿
午前7時すぎ、江戸日本橋から約10km、東海道第一の宿場である品川宿に到着。
ここは、都心でありながら旧東海道の面影が残された場所となっています。
ゆっくりと旧跡などを訪ねるのも楽しそうですが、先を急ぎます。
大森本町で朝早く営業しているパン屋があったので、停車。朝食を補給をします。
川崎宿〜神奈川宿
六郷土手を過ぎ、六郷橋で多摩川を渡ると神奈川県に入る。六郷橋の付近から下流を別名で六郷川と呼ぶらしい。
08:30 川崎宿
午前8時半、江戸日本橋から約20kmにある東海道2番目の宿場町である川崎宿に到着。信号の標識には「東海道川崎宿」と表記され、道路脇の看板には「旧東海道 いさご通り 川崎宿」とある。
いさご(=砂子)という地名は、六郷川の河口付近に形成された砂質の州に人が住み始めて名付けられたと言われている。
江戸日本橋より五里目にある一里塚「市場一里塚」。一里が約4kmなので、日本橋からここまでは約20km。
「市場」とは、この地域のかつての名称「市場村」から。室町時代に海産物の市場が開かれたことからこう呼ばれるようになったそうです。
鶴見線の国道駅を過ぎると、生麦河岸通りがあった。その名の通り、魚河岸屋さんが並ぶ通りであった。
09:30 神奈川宿
午前9時半、江戸日本橋から3番め目の神奈川宿に到着。旧東海道と国道1号が交差する青木橋を過ぎ、上り坂の途中に田中家がある。
ここは、かつて湊を見下ろす景勝地で、海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいたそうです。
その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれている。私が田中屋の前に自転車を停めて撮影した場所は、上の画像の赤枠あたりになる。今は、すぐ目の前に海があったとは思えない景色となっている。
少し進むと、街道は昭和レトロな商店街となった。「ハマのアメ横」と称される横浜洪福寺松原商店街だ。野菜や鮮魚などが道路にはみ出して並べられており、買い物客も多いので気をつけて走る必要がある。
保土ヶ谷宿〜戸塚宿
10:00 保土ヶ谷宿
午前10時、江戸日本橋から4番め目の保土ヶ谷宿に到着。古い道標が並べられていたので一旦停車。「保土ヶ谷宿 お休み処」という場所のようだ。ここは保土ヶ谷宿本陣の跡。
先に進み、岩崎ガードという信号を過ぎたところで道が二又に別れた。右の旧道へ進む。
権太坂
ここは江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験したきつい上り坂。並行して走る国道1号線にも同じ名の権太坂があるが、勾配はもう少し緩い。
この坂の名の由来は、その昔、道端の老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いその老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、だそう。ここも、神奈川宿の田中屋があった場所と同じく、坂の上から見た海の景色が美しかったようだが今は見えない。
権太坂を上り切るとその後もアップダウンは続き、焼餅坂、品濃坂と坂道が続く。
10:50 戸塚宿
保土ヶ谷宿から50分ほどで戸塚宿に到着。旧東海道は、一旦、JR東海道線の線路に分断される。
以前は踏切があり地上を通行できたが、現在は高架化された「戸塚大踏切デッキ」という人道橋で線路の上を通行することになっている。
大踏切があった場所には、鮮明な写真が掲載された案内板が設置されていて、眺めていると楽しい。
この大踏切が高架化されるまでの貴重な記録を見つけたので、勝手にリンクさせていただいた。http://egoclip.net/2016/04/post-73/
藤沢宿〜大磯宿
12:00 藤沢橋
戸塚大踏切を越えたあとは、交通量の多い国道1号線をしばらく走る。「藤沢バイパス出口」という信号から道が別れ、再び旧東海道となる。松並木跡を過ぎると江戸日本橋から6番目の宿場、藤沢宿となる。
上図は、広重が描いた遊行寺あたりの景色「藤沢宿」。江ノ島も描かれているが、観光資源の特長をよく表した見事なデフォルメとなっている。
藤沢橋を右に折れ、引地川を渡ったところで和菓子屋さんを発見。暑さで疲れていたので休憩をとることにした。
涼しい店内で葛で出来ているという葛氷をいただく。おかげで火照った体が冷え良い休息となった。
再び走り出すと、目の前に松並木が現れた。旧東海道を象徴する景色だ。国道1号線を進む。
12:53 平塚宿
茅ヶ崎を通過し、相模川を渡ると平塚市だ。平塚市は7番目の宿場・平塚宿があった場所。
平塚市は、私が生まれて育った街。懐かしい景色を楽しみながら進む。ただ、残念なことにここには平塚宿の面影を残す建造物は一切なく、道路も拡張され、その痕跡を示す碑だけが設置されているだけとなっている。
wikipediaで調べると、「平塚宿(ひらつかしゅく、ひらつかじゅく)は、東海道五十三次の7番目の宿場である。現在の神奈川県平塚市にあった。」という記載しかない。寂しいものだ。
(江戸時代の東海道とは別の、古代の東海道の遺構「構之内遺跡」が平塚市・四之宮で見つかっています。)
京都側の見附(見張り番所)跡という表示があるが、これも碑だけ。平塚宿を後にし国道1号線を先に進む。
13:26 大磯宿
花水川を渡ると大磯町となる。8番目の宿場である大磯宿があった場所だ。
趣のある建物があったので、一旦停車。ここは、江戸時代から続く俳句の道場、鴫立庵。敷地内には小川が流れており、騒々しい国道一号線の直ぐ側にあるとは思えない景色があった。
大磯町の松並木は、「新・日本街路樹100景」のひとつに選ばれるほど美しい並木道だ。
「吾妻神社入り口」信号手前で道が2つに別れた。右は旧東海道の名残りをとどめる道、ということなので行ってみる。狭い道幅が、旧道を感じさせたが、江戸時代の東海道の道幅は五間(=9m)もあったらしい。
小田原宿
14:30 酒匂川
酒匂川を渡ると一日目のゴール、小田原宿となる。江戸時代、日本橋を出立した人の多くが2泊目の宿として利用した東海道・9番目の宿場町小田原宿。天下の嶮「箱根山」を越えるために、泊まらざるを得なかった小田原宿は、ここまでで最大の宿場町だ。
ちなみに、ここまでの宿場町の規模を表す旅籠の軒数は、小田原宿(96)、品川宿(93)、戸塚宿(75)、川崎宿(72)、保土ヶ谷宿(67)、大磯宿(66)、神奈川宿(58)、平塚宿(54)、藤沢宿(45)となっている。
かつて、酒匂川には橋がなかった。旅人は川越し人足という人たちの手を借りて川を渡らなければならなかったが、雨が降り続き水深が増すと川留めとなり、足止めされた。
酒匂川が川留めとなると、旅人は付近の農家を借りたり、野宿して待ちわびたそうだ。今は橋がかかっているので、自転車なら1分で渡れる。
江戸口見附があった場所、山王口に到着。ここが小田原宿の入口でもあり、今朝出発した江戸日本橋から山王口までは約83kmの距離となっている。
小田原には、旧東海道を偲ばせる遺構が多い。これは一里塚跡。
江戸時代のものではないが、古い建物が博物館として残されている。これは、鰹節や鯖節の問屋。
14:50 本町
国道1号線沿いの本町にある「小田原宿なりわい交流館」に到着。こちらは、市民や観光客が自由に立ち寄れる市営の休憩所。冷たい麦茶をいただき、一服してこの日のライドを終えました。
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