私の住む東京には、営業距離、利用客数世界一を誇る鉄道網が整備されている。そして、その影で役目を終えて無くなってしまった路線もある。都内に残る鉄道の遺構を巡るじてんしゃの旅シリーズ(3)は武蔵野市にある武蔵野競技場線を訪ねた(2021/04/03)
鉄道遺構マップ
武蔵野競技場線は下図の紫色のライン。
武蔵野競技場線とは
蔵野競技場線は、かつて国鉄が運行していた中央本線の三鷹駅から分岐した支線。武蔵野競技場線は1950年に廃止となった旧中島飛行機武蔵野製作所の軍事引き込み線の二次利用で、1951年に運行が開始された。1951年に出来た武蔵野グリーンパーク球場へ野球が開催された時に乗客を輸送することが目的だった。
しかし、スタジアムは1年で閉鎖となり、翌年から運行休止となって1959年に廃線となっている。三鷹駅から武蔵野競技場前駅まで3.2kmを営業していた。
三鷹車庫跨線橋
出発地点は、三鷹駅の西側にある三鷹車庫の跨線橋。
自転車を持って上がって、橋の上から西を望む。下図の画面右、保線車両の基地のあるところがかつての武蔵野競技場線跡だ。少し先にある堀合児童公園が出発地点となる。
三鷹車庫跨線橋の上は中央線の電車を眺めるスポットになっているらしく、子どもたちとその親で賑わっていた。
堀合(ほりあわい)遊歩道
さて、堀合児童公園から西に向かって武蔵野競技場線跡を辿っていきます。
線路跡を利用した遊歩道は「堀合(ほりあわい)遊歩道」という名で、この先の玉川上水と交差するところで名前が変わる。
桜の花が敷き詰められた遊歩道は、右に急カーブして北に上がっていく。
大きな桜が遊歩道を覆っている。鉄道が走っていた頃も桜が咲いていたのだろうか。この遊歩道は自転車走行禁止となっていたので押して歩く。
橋台跡
しばらく進むと、玉川上水にかかる小さな橋が現れた。ぎんなん橋と言うらしい。三鷹市はここまで。
橋にはかつてのレールが埋め込まれ、モニュメントとして保存されたいた。
この橋は、2012年(平成24年)になってから架けられたものだが、橋の下にある橋台跡は工場への引込線だった頃の唯一の戦争遺構なのだそうである。
しゃがんで覗き込んでみたが、肝心の遺構はかすかに見える程度。案内板の写真のほうがわかりやすい。
グリーンパーク遊歩道
玉川上水と越えると武蔵野市となり、遊歩道はグリーンパーク遊歩道と名を変える。
歴史を感じさせる大きな樹が続くグリーンパーク遊歩道をのんびりと走る。
公園になっている開けた場所に出た。関前のグリーンパーク緑地だ。
戦時中、ここには軍需工場を守るために高射砲があったようだが、今は公園となって小さな子供たちが遊ぶ場所になっている。
先に進み、八幡町のグリーンパーク緑地に差し掛かると、道は大きく右に曲がってゆく。
道端に目を向けると、境界杭があった。鉄道の敷地と周辺の土地の境界を表したものだろう。
境界杭は朽ち果てていたのでおそらく営業していた当時のものだと思うが、赤茶色くなった柵も当時のものだろうか。ちなみに「グリーンパーク」とは、中島飛行機武蔵製作所跡地を接収した米軍が付けた名称なんだとか。
武蔵野中央公園
八幡町のグリーンパーク緑地を抜け一般道に出ると、正面に大きな公園が現れた。武蔵野中央公園だ。
ここはかつての中島飛行機武蔵製作所の跡地。戦後は70年代まで米軍住宅があった場所で、その後、球場(武蔵野競技場)になっている。道路の左側に建つ分譲マンションが線路跡地。
さらに先に進み、武蔵野市立高齢者総合センターがある交差点が、武蔵野競技場線の終点。武蔵野競技場前駅のあった場所。
戦前は、5万人が働いていた巨大軍需工場、中島飛行機武蔵製作所の正門があった場所でもある。現在、この場所に鉄道の駅はないが、スーパーや飲食店が並び駅前のような雰囲気がある。
腹が減ったので信号の前にあった中華料理に入ったが、現金を1円も持っていないことに気づき外に出た。
コメントを残す