私の住む東京には、営業距離、利用客数世界一を誇る鉄道網が整備されている。そして、その影で役目を終えて無くなってしまった路線もある。都内に残る鉄道の遺構を巡るじてんしゃの旅シリーズ(4)は、赤羽にある軍用貨物の線路跡、東京兵器補給廠線跡を訪ねた(2021/04/10)
鉄道遺構マップ
東京兵器補給廠線は下図の黒色のライン。マップのマーカーと記事画像のキャプションは連動しています。
東京兵器補給廠線とは
戦前の赤羽台から桐ケ丘、板橋方面には、かつての旧日本陸軍の施設が広がっていました。その施設へ国鉄線から物資を運ぶための軍用貨物の専用線が『東京兵器補給廠線』。この記事では、専用線跡を国鉄分岐点から東京兵器補給廠跡地までを辿ります。ちなみに補給廠(ほきゅうしょう)の廠(しょう)とは、屋根だけで壁のない場所のこと。
赤羽八幡神社参道
じてんしゃ旅の始点は、国鉄(現在のJR)から分岐した地点から。東京兵器補給廠線は、ここから現在の西が丘方面へと線路を延ばしていた。
JR埼京線と東北本線に挟まれた草地手前の駐車場から走り出します(草地は立入禁止)。
線路跡はこの先、当時は存在しなかった東北新幹線の高架橋を潜る。しかしこのルートは自転車では通行できないので、一旦、別の場所から高架橋を潜り赤羽八幡神社の境内へ移動する。
赤羽八幡神社は埼京線と東北本線に挟まれた場所にあり、参道の一部もかつての廃線跡だったようだ。
赤羽緑道公園
赤羽八幡神社の参道から南西に伸びる廃線跡をじてんしゃで辿って行く。
廃線の跡地は緑道公園となることが多い。東京兵器補給廠線の跡地は赤羽緑道公園として区民に利用されている。
公園の入口にはかわいい門番がいた。緑道内は自転車走行禁止なので降りて歩き始める。すると、黒白のニャンが道案内をしてくれたのである。
ニャンの丁寧な道案内で、レールを模したモニュメントがある道を進む。
赤羽並木通りと交差するところに歩道橋があり、欄干に動輪のモニュメントが飾られている。
かつてここに鉄道が走っていたことを感じさせてくれる。
他の方のブログに「かつてここに踏切があったかもしれない」と書かれた場所に到着する。自転車・バイク侵入防止柵があり、お寺の墓が見える場所だ。
美しい公園内をのんびり歩いていると緑道が一旦切れる場所に出る。
信号のある都道445号線だ。信号を越えれば再び遊歩道が続く。すると、今度は遊歩道の一部が鉄橋を模した場所が現れた。現役当時、ここに鉄橋があったかは不明だそうだが。
左手のにある赤羽住宅の敷地が終わったところで、赤羽緑道公園は終わる。
分岐点、支線へ
赤羽住宅の敷地が終わった場所(下の画像)から、東(画像の道路の先)に、かつて支線が延びていたようなので辿ってみる。
辿っていくと、廃線跡は団地の敷地にあるようだったので自転車を降りてお邪魔した。
廃線跡は、赤羽団地を突き抜け北東に伸びていた(画像の道路の先)。
300メートルほど行くと支線の終点となった。廃線の痕跡は何も残っていなかった。周りを見ると周辺にはかつての公団の団地や小学校があり、国から払い下げられた土地なんだろうなと想像できる。ここには、軍の施設があったのだ。
余談だが、上の画像の右手に、国の登録有形文化財である『旧赤羽台団地の「スターハウス」』がある。この時は残念ながら見逃してしまった。
終点の国立スポーツ科学センターへ
さて、分岐点まで戻ります。東京兵器補給廠線も残りあと僅か。終点の東京兵器補給廠跡地へ向かいます。跡地は現在、国立スポーツ科学センターとなっている。
廃線のあった場所は、赤羽自然観察公園と道路の間の細い土地(下の画像)。
都道455号線を横断した先500メートルほどは、北区の福祉施設や一般の住宅や集合住宅があって廃線跡を辿れない。
廃線跡に建てられた一般の住宅や集合住宅を抜けると、蓮沼アスリート通りと交差し、その先には国立スポーツ科学センターおよび味の素フィールド西が丘が現れる。
このセンターの敷地が、東京兵器補給廠の跡地となる。戦後、米軍によって接収され1958年に日本に返還された。その後、用地は国立西が丘競技場となり、2001年には敷地内に国立スポーツ科学センターが開所した。
東京兵器補給廠線は、戦後に廃線となるが、1960年代までは線路が残されていたそうだ。
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