父があの世に旅立って一月半。久しぶりにサドルに跨って丹沢の麓を走ってみた。父の生家の近くにある津古久峠は長閑で良いところだった(2024/03/03)
愛甲石田駅から走り出す 大山道(大山街道) 津古久峠 土屋へ
昨年末に病が見つかり病院や自宅で看護を受けていたが、父は年を越した1月の終わりに亡くなった。あっという間だった。
それまで大病などしたことがなかった父だけに、そのあまりにも早い旅立ちは、私たち家族に心の準備をする時間を与えてくれなかった。
亡くなってから一月半経ったが、未だに実感がない。
季節は3月になり、久しぶりに自転車でも乗ろうと考えた時に、父が亡くなる数日前に書き残していた1枚のメモを思い出した。「私は大山のふもとで生まれ育ちました」という一文で始まるメモだ。そうだ、父の生まれた伊勢原の高森辺りを走ってみよう、と思った。
愛甲石田駅から走り出す
まずは都内から小田急線で輪行。父が生まれ育った伊勢原市高森周辺へは、小田急線の愛甲石田駅からアクセスすることにした。愛甲石田駅で降りたのは初めてかもしれない。
ところで、愛甲石田とは地名なんだろうか。いつも不思議に思っていた。調べてみると、ウィキペディアにありがちな経緯が載っていた。
小田原線が開通する際の駅設置予定地は、現在の駅所在地よりも1キロメートルほど伊勢原寄りの中郡成瀬村高森(現在の伊勢原市高森付近)であった。しかし、地主の反対を受けたことから、当初よりも少し東側の成瀬村石田(国道246号から高森道了尊への道が分かれる付近)へ計画を変更した。ここで愛甲郡南毛利村(現在の厚木市愛甲付近)から駅誘致があったため、さらに東側に計画を変更しようとしたところ、全く石田に鉄道駅がなくなることには石田側が難色を示した。このため、南毛利村と成瀬村の境界付近に駅を設置することとし、駅名も南毛利村愛甲と成瀬村石田の双方の地名を合わせることになった。
wikipedia
さて、愛甲石田駅を出発して厚木市道・愛甲長谷線を北西方向に走り出す。
大山道(大山街道)
走り出してすぐに分かったこと。伊勢原市の高森や厚木市の愛甲は、大山・丹沢の山々がよく見えるということ。山の手前に人工物が少ないのでスッキリと山容がわかる。
また、このあたりは大山信仰の古道である大山道があった場所でもある。
大山道についてはウィキペディアに下記の記載がある。
大山道とは、主に江戸時代の関東各地から、相模国大山の山頂にある石尊権現社(大山寺本宮、江戸時代後期には阿夫利神社とも別称、明治以降は阿夫利神社本社)と中腹の大山寺不動堂(明治以降は阿夫利神社下社、いったん廃寺となった大山寺は後に来迎院跡地に再建)に登拝する参詣者が通った古道の総称。大山街道とも呼ばれる。代表的なものとして、「田村通り大山道」や「青山通り大山道」などがある。
wikipedia
下図の青いラインが青山通り大山道、赤が府中通り大山道。そして緑のラインが走行したルート。今回は街道をトレースしていない。
大山・丹沢から相模川下流部へと流れこむ玉川にかかる橋、赤坂橋を渡る。
橋には魚を頭に乗せた豚のモニュメントがあった。どうやら厚木市のキャラクターらしい。
良い景色のなか、玉川に沿って西へ走ると、だんだんと津古久峠がある丘陵が近づいてきた。
丘陵を上がり、子安神社の脇道へ入っていく。すると急な下り坂となる。地図を確かめると道を間違えていたので引き返す。
津古久峠
「つこくのおばさん」という親戚の人に子供の頃に可愛がってもらった記憶がある。「つこくのおばさん」の家は父の生家があった高森の近くにあったので、多分このあたりだったのだろう。「つこく」はずっと「津国」だと思っていたが、「津古久」だったのだ。
カーブが連続する道を上がっていくとピークに三叉路があり、石の標柱が立っていた。
ここが津古久峠。標高は100mに満たない小さな峠だ。
津古久峠があるこの辺りは、古くから交通の要所であり大山を信仰する数多くの人々が行き来したという。
標柱の側面には以下記載がある。
『後北条時代に小田原と武蔵を結ぶ小田原道として発達し、江戸時代になると大山参りの人々がこの峠を越え、大山道として発達した。最盛期には、峠にお茶屋もあったと伝えられている。』
Googleマップを見ると、少し先に「津古久峠 茶屋跡」というレリックアイコン表示されていたので行ってみることに。
峠を下り始めると途中に右折する分岐路があり、石の標柱に「自然散策路」と刻まれていた。じてんしゃを押して歩いていくと石の標柱が現れた。
標柱には以下記載があった。
『小田原北条時代は、小田原と八王子を結ぶ軍用道で、江戸時代には、大山参りの道となり、ここにお茶屋があった。』
調べてみると、津古久峠は長い歴史が刻まれた由緒ある場所のようだ。古の時代のヤマトタケル伝説も残されている。
土屋へ
津古久峠を下り、父の生家があった辺りまで行く予定だったが、途中で気が向かなくなってしまい、そのまま伊勢原駅方面へ真南に南下。もうひとつの目的地である平塚市土屋へ向かう。
父の四十九日法要後に庭に植樹するために、土屋にある園芸店で苗木を買うためだ。
父は庭で植木を弄るのが趣味だったが、数年前に家を建て替えた時に、庭木とともにすべて処分してしまった。その後、空いた場所に野菜などを植え家庭菜園を楽しんでいたが、昨年、その菜園もすべて処分して更地にしてしまった。
自分の死期を分かっていての身辺整理だったかもしれないが、とにかく庭が殺風景になってしまった。
なので、木を植えて時々水をやった時に亡き父のことを偲んでもいいかな、と。
四十九日法要後に皆で植樹した3本の実の成る木。
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