シリーズ記事・鉄道遺構を巡るじてんしゃの旅(10)では、沖縄県にある軽便鉄道与嘉手納線の廃線跡を訪ねた(2024/4/2)
目次
撮影ポイント付きルートマップ
沖縄県営鉄道 嘉手納線とは
沖縄には、かつて鉄道が走っていた。那覇から嘉手納・糸満・与那原の3方面に路線網が敷設されていたのだ。
路線には「軽便(けいべん)鉄道」と呼ばれる、一般の鉄道よりも軌間の小さな車両が走っていた。沖縄県民からは「ケイビン」「ケービン」という愛称で親しまれ、人々の生活と経済を支え続けてたそうだ。ところが、戦争によって全てが破壊されてしまい現在はその姿がほとんど残っていない。
与那原線について、ウィキペディアには以下のとおり記載されている。
嘉手納線(かでなせん)は、かつて沖縄県那覇市の古波蔵駅と同県中頭郡北谷村(現・同郡嘉手納町)の嘉手納駅を結んでいた、沖縄県営鉄道の鉄道路線である。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月に運行を停止し、沖縄戦で線路施設が破壊され、そのまま消滅した。
wikipedia
那覇駅から古波蔵駅までは嘉手納線跡を辿る
2022年6月に辿った与那原線から約2年、うりずんの沖縄で嘉手納線跡を辿る機会が訪れた。あいにく小雨交じりの天候だったが、走れなくはなさそうだ。
那覇空港で飛行機輪行を解いだバイクフライデーでいざ出発、と思ったら後ろから声をかけられた。
「空気をいれるポンプを持ってないですか?」と英語で聞かれた。振り返ると30歳代のアジア人男性がいて、背後にブロンプトンが見えた。
携帯ポンプを貸したが、彼のブロは米式バルブのようでエアーを入れられなくて困っていた。
するとまた背後から声をかけられた。
「どうぞこれを使ってください」
60歳代の日本人男性がフロアポンプ(米式バルブ付き)を差し出してきた。彼もロードバイクを輪行をしていたようで、私とアジア人男性のやり取りを見ていたのだ。1件落着だ。それにしてもサイクリングするならポンプぐらい携行しようね。
あるいは那覇空港に、サイクルステーションを作ったほうがいいかもしれない。
午前10時すぎに那覇空港を出発。軽便鉄道 嘉手納線を辿るじてんしゃ旅のはじまりだ。
まずは、那覇バスターミナルへ。軽便鉄道 与那原線の始発駅「那覇駅」があった場所からスタート。
走り出してすぐ、壺川公園の残された鉄道遺構をチェック。ここについて詳しくは下記記事に詳しく書いてある。
古波蔵駅跡から嘉手納駅跡まで嘉手納線を辿る
古波蔵駅
10時54分、古波蔵交差点に到着。ここが嘉手納線の始発駅古波蔵駅があった場所。那覇駅から1.2km離れている。
嘉手納線の停車駅は以下のとおり
古波蔵駅ー与儀駅ー安里駅ー内間駅ー城間駅ー牧港駅ー大謝名駅ー真志喜駅ー大山駅ー北谷駅ー桑江駅ー平安山駅ー野国駅ー嘉手納駅
安里駅
古波蔵交差点からは国道330号線を北上。姫百合橋から頭上にゆいレールが合流する。ゆいレールの安里駅は、嘉手納線の安里駅があった場所にある。
真嘉比交差点を過ぎると、嘉手納線跡は国道330号線を離れ内間駅方面に向かう。
そして、道のない場所を斜め横断するように古島交差点から県道251号線に合流していく。ゆいレールは直角に右折して首里方面へと離れていった。
古島交差点の先にあった宇久増橋には、欄干に鉄道の動輪がデザインされていた。
パイプライン通り
浦添市に入ると県道251号那覇宜野湾線は、「パイプライン通り」という名になった。このパイプライン通りは、一部、嘉手納線跡と重なっている。偶然なのかと思ったがどうやら違うようだ。
終戦後、那覇軍港から嘉手納基地までアメリカ軍が使用する燃料を輸送するために嘉手納線跡に送油管(パイプライン)が埋設された。このアメリカ軍の送油管が埋設された土地は、1980年代から順次日本に返還され市道となった。そして、1998年に一般県道那覇宜野湾線(県道251号)となった。つまり、パイプライン通りは軽便鉄道嘉手納線の跡地なのだ。
パイプライン通りは沖縄の歴史が詰まった道路と言えよう。
牧港駅
嘉手納線跡は、パイプライン通り(県道251号線)の浦添市屋富祖の信号を左折して城間通りへと方向を変えた。信号近くに「軽便鉄道レール パイプライン標識」という遺構が残っている場所があったのだが、うっかり通り過してしまった。
城間通りを終え、嘉手納線跡は一旦、国道58号線に合流。そして、下図の場所付近で国道58号線を離れ牧港駅へ着く。廃線跡は厳密には下図ポイントの手前から右に離れるようだ
廃線跡が道になったんだろうな、という幅の道路を進むとやがて牧港駅があった場所に着く。
大謝名駅
12時26分、大謝名交差点に到着。大謝名駅があったのは少し手前の場所だったようだ。この先、嘉手納線跡は道なき道を進む。大謝名交差点はバッサリと横切る。ちなみに大謝名は「おおじゃな」と読む。
真志喜駅
住宅地となってしまった廃線跡と並行しながら走っていると、やがて廃線跡と道路が重なった。
景色が開け、眺めの良い場所に出た。真志喜駅は、下図の少し先にあったようだが、どうやら土手の上にあったようだ。遠くに海も見えている。営業当時の車窓からの眺めは、さぞ良かったに違いない。
大山駅
Googleマップを見ると、真志喜駅があった場所あたりから「マジキナガー」や「アラナキガー」、「ヤマチジャガー」などと「ガー」と名が付くレリックアイコンがたくさん出現した。
ガーは沖縄の言葉で「井戸」。井戸がたくさんある場所なのだ。
12時44分、大山駅があった場所に到着。
再び国道58号線に合流するも、「伊佐」信号で離脱。三叉路の交差点近くに遺構が残っている場所があるので寄ってみた。下図10-15がその場所。歩鉄の達人さんの取材によると、ここは廃線跡の暗渠なのだとか。
さらに、その先には軽便橋があった。嘉手納線が通っていた場所に軽便鉄道の橋の名前が付けられているのだ。画面から見切れてるが下図10-16の右側にある。
北谷駅
軽便橋を渡り(実際はにらい橋を渡った)、普天間川を越えると次の駅は北谷駅だ。
住宅街の道路を進み北前第一公園の前でじてんしゃを停めて写真を撮ってみたが、北谷駅はもう少し手前にあったようだ。
桑江駅
白比川に架かる美浜橋を渡り、北上を続けると桑江駅があった場所に着く。その場所は、現在は北谷町立桑江中学校となっている。桑江駅は正門前にあったようだ。
北谷町美浜を進む。
幅の狭い、いかにも廃線跡という真っ直ぐな道路が現れた。ここは嘉手納線の廃線跡が整備された道路だ。一方通行を逆走してしばらく直進。
平安座駅・野国駅
廃線跡を整備した道路が終わり、嘉手納線はやがて米軍の基地の中に吸収された。次の平安座駅跡とその次の野国駅跡は基地の中にあるので民間人の私には確認ができない。
国道58号線を走って終着駅の嘉手納駅方面に向かった。
嘉手納線が基地を出るのは、嘉手納町嘉手納にある嘉手納警察署あたりだ。廃線跡は隣りにある嘉手納町役場前も通りいよいよ終着駅嘉手納駅に着く。
嘉手納駅
廃線跡は公園でぷっつりと途切れた。公園の芝生は円形となっている。ここが嘉手納駅跡だ。
円形の公園は、以前ここにロータリーがあったことを表している。下図の那覇市歴史博物館 提供の画像からもよくわかる。
嘉手納駅からスイッチバックし西に向って製糖工場への専用線も出ていたそうだが、今では辿ることは難しい。
嘉手納線跡を走リ終えて
今回は那覇から嘉手納まで軽便与嘉手納線の鉄道遺構を辿ってみた。ほとんどの鉄道施設は、1945年の沖縄戦によって破壊され、その後消失したので、鉄道が通っていた痕跡を見つけるのは難しかった。ただ、廃線跡をたどりその景色を眺めていると「あぁ、ここに小さな機関車が通っていたんだな」と想像することはできた。
また、「パイプライン通り」や「ロータリー広場」のように、廃線跡が整備され残っているので目には見えないが鉄道の歴史や沖縄の歴史を知ることができた。
次の沖縄での鉄道遺構を巡るじてんしゃの旅は、県営鉄道の中でも最後に開通した「糸満線」だ。
出典:那覇市歴史博物館
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