私が卒業した小学校は神奈川県平塚市中原御殿にある。その小学校があった場所に徳川家康の御殿が建っていたこと、家康が御殿へ行くために使っていたのが旧中原街道だったことを最近になって知った。旧中原街道を虎ノ門から中原御殿まで辿ってみた(2017/1/3)
撮影ポイント付きルートマップ
下図のルート上に記したポイントは記事の画像を撮影した場所です。
虎ノ門〜桜坂
江戸城には36もの見張り場所があり、その場所にはそれぞれ城門があった。江戸城外郭の南西に位置する虎の門もその一つと言われている(諸説ありはっきりしていない)。
家康はこの虎ノ門を出て中原御殿まで馬で駆け抜けたのだ。距離は60km以上ある。すごい体力の持ち主である。
08:44 虎ノ門出発
国道1号線の虎ノ門交差点近くにある虎ノ門記念碑を出発する。
正月の都心の道路はガラガラ。
国道1号線に駅伝のランナーが戻ってくるのは午後になってからだろう。今日は走る中原街道に駅伝の影響はないと思われる。
09:01 赤羽橋
古川に架かる赤羽橋を通過する。道の反対側に常夜灯のようなモニュメントがあったので撮影。
「三田3丁目」信号を右折して聖坂を上がっていく。
そのまま道なりに二本榎通りを進み、「高輪三丁目」信号を右折すると国道1号線と合流する。
09:42 五反田駅
五反田駅と交差したらすぐに左に曲がって、目黒川を渡り大崎広小路方面へ向かう。再び国道1号線と交差した後に首都高速2号目黒線の下を通って旧中原街道が続いていくのだが、旧道が見つからずウロウロとする。
後になって机上の地図で見ると、旧中原街道はきれいに線で繋がっている。しかし、現実は他の道路やビルに遮られて分断されてしまっている。
首都高を潜った後の旧中原街道は、昔の風情が少し残っている。
江戸期の街道の面影や民間信仰を今に伝える、供養塔群や地蔵尊があるのだ。
10:09 平塚橋
平塚橋からは都道2号東京丸子横浜線に合流する。この道は、丸子橋までは中原街道と呼ばれる。
都道2号線を淡々と下っていき、「田園調布警察前」信号で左折すると桜坂が現れた。
ここは切通の坂道で、古くは沼部の大坂と呼ばれたようだ。今は桜の名所になっている。福山雅治の楽曲「桜坂」の舞台にもなっていて観光名所でもある。
丸子橋〜寒川
10:39 丸子の渡し
東京都と神奈川県をつなぐ中原街道が通る橋として、今は丸子橋が架かっている。
しかし、この橋が架けられたのは昭和初期。それまでは「丸子の渡し」と呼ばれる渡し船が活躍していたという。
下図の自転車が置いてある辺りが丸子の渡し場。人々はここから船で対岸まで渡っていたのだ。それがすなわち昔の旧中原街道跡ということになる。
ちなみに右手に見える青い橋が丸子橋。
対岸の神奈川側に渡り、「丸子の渡しの碑」を見物してから再び走り始める。
「丸子橋」信号からは、神奈川県道45号(丸子中山茅ヶ崎)線を征く。
丸子橋周辺にも、昔の街道の面影を伝える遺構がいくつか残っていた。
10:57 小杉御殿跡
クランク状になった道路が現れ小杉御殿に到着した。この道はカギ道と呼ばれている。
小杉御殿は、これから向かう平塚市の中原御殿同様、徳川家康が鷹狩の際に休憩場所して利用した屋敷。
付近には明治に創業した醤油造りの蔵も残っており、道路から見ることができる。
小杉御殿はすでに遺構が残っておらず石碑が建つだけだが、跡地には稲荷が祀られている。その一つが御主殿稲荷。他にも蔵や陣屋を祀った稲荷もあったようだが見つからなかった。
さて、旧中原街道に戻り平塚を目指そう。
と思った矢先、道を間違え見たことのある名前の小学校に着いた。なんとここにも中原小学校があるではないか(でも小杉御殿の跡地ではなさそう)。
11:20 神奈川県道45号(丸子中山茅ヶ崎)線(旧中原街道)
さてさて、旧中原街道に戻って平塚を目指そう。
旧中原街道は第三京浜道路と交差した後に、右に切れていくが弧を描いて元の県道45号に戻る。
県道45号線に戻って少し進むと、都筑区勝田町に関家住宅という歴史的建造史跡がある。
関家住宅は、国指定の重要文化財に指定されている古民家。19世紀中頃に建築され、東日本では最古級と言われている。
横浜市営地下鉄ブルーラインを跨ぐと、県道45号線はクランク状に曲がる。本来の旧中原街道は自然なカーブを描いて曲がっているが、都市化によって旧道は消失している。
東方公園のあたりでは緩やかなアップダウンも現れる。
12:27 佐江戸町
佐江戸町という歴史を感じる地名の街に到着。「地蔵尊前」信号を右折する。
佐江戸町は江戸時代からある古い地名かと思いきや、鎌倉時代から使われているようだ。スゴい。
横浜市旭区に入り、再び緩やかな丘陵地を走る。下図の右前方には、「よこはま動物園ズーラシア」がある。
境川を越えると神奈川県大和市になる。
その後、国道467号藤沢町田線とも交差し、さらに引地川を越えたあたりの「代官1丁目」信号を右に曲がる。
13:23 厚木基地
信号を曲がるとすぐに厚木基地が現れる。ここは、云わずと知れたアメリカ海軍と日本の海上自衛隊が共同で使用している軍事基地だ。
神奈川県大和市と綾瀬市にまたがって広大な飛行場となっている。下図を撮影した場所は、ちょうど市境で左手が綾瀬市、右手が大和市だ。
厚木基地を通過し、南西方面に走っていると目の前がひらけ丹沢の山々が姿を表した。
そして今度は藤沢市に入った。
さらに南西方面に走っていると寒川町となり、相模川に行き当たった。この川の向こう側は中原御殿がある平塚市だ。
田村の渡し〜中原御殿
14:44 寒川町一之宮
湘南銀河大橋で一旦、相模川を渡ったものの旧中原街道のルートから外れていることに気づき、再び寒川町に戻りルートを探す。
寒川町一之宮に不動尊があり、道標に「右大山道」と刻まれていた。こちらが正解のようだ。
今度は神川橋を渡って平塚市側へ渡る。橋の欄干には渡し船の意匠があった。
そう、ここは田村の渡しがあった場所。
なんと昭和28年まで橋が架けられておらず、渡し船が市民の足だったとか。
14:57 田村の渡場跡
相模川の右岸、平塚市側の田村の渡場には碑が建てられていた。
平塚市が建てた案内板もあり下の様に記されている。
田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島から大山参詣のために使われた道です。渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」と呼ばれていました。渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望できることができ景勝地としても知られていました。
15:15 真土地区
真土まで来ると、だいぶ地元に戻ってきた感がある。
緩やかに曲がった細い道が続く真土の旧中原街道には、古道の雰囲気が残っている。
今回初めて訪れたのが、平塚市にこのような昔の遺構が残っている場所があるとは驚いた。
平塚市の観光協会と地元が建てた案内板にも、「いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは、真土地区と言われている」とあった。
15:35 中原地区
真土地区を過ぎると、地名が東中原となりいよいよゴールが近づいてきた。
平塚市と伊勢原市をほぼ平坦な一直線で結ぶ県道61号平塚伊勢原線と交差する。この道を平塚市民は「伊勢原街道」と呼ぶ。近年は東側に道幅の広い「新伊勢原街道」が出来たため、「伊勢原街道」は「旧道」とも呼ばれている。
15:38 中原御殿
旧道・伊勢原街道を過ぎると中原御殿跡にある中原小学校到着した。
中原小学校は私の母校になる。
中原御殿は、徳川家康が鷹狩などのおり宿泊所とした屋敷。御殿の規模は東西141m、南北101mもあった。坪数にすると4,315坪ということになる。広大な屋敷だ。
建造は慶長元年(1596年)とも言われているが諸説あるようだ。寛永十九年(1642年)に修復されるが、明暦三年(1657年)には引き払われている。建造が1596年であれば、わずか60年間だけ存在した御殿ということになる。
御殿が引き払われた後は、松や檜が植えられ東照宮が祀られ「中原御林(なかはらおはやし)」として厳重に保護された。しかし、明治以降、東海道線の駅舎建築に使用する煉瓦を焼くための燃料として全て借り尽くされてしまったのだとか。
ただ、御殿の門は、西に400mほど行った善徳寺に移築され山門として残っているようだ(だだし、はっきりしない)。
旧中原街道を走り終えて
私が卒業した中原小学校は、徳川家康の中原御殿跡に建てられたものだったという驚きの事実。
また、中原街道は江戸城虎ノ門から中原御殿がある中原村への脇街道だったというもう一つの事実。
この2つの事実を知り、港区虎ノ門から中原御殿まで旧中原街道をじてんしゃで辿ってみた。
港区虎ノ門から中原御殿までほぼ平坦で一直線な道路は、当時から物の運搬に活躍していたようだが、現代においてもフラットで迷わず走りやすい。
途中に古道の面影が残っているところもあって、歴史を楽しむこともできる。距離は70km程度で、ロードサイクリング初心者でも走破可能なルートとなっているので走ったことのない人は是非チャレンジしていただきたい。
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